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デザインノート 01:建築と視覚

このノートはデザインに対する考え方や見方に影響を与えた書籍や経験をまとめたものです。私が学生時代に読んだものですので記憶含め少し古いですが根底にあるものは色褪せずに根付いています。このノートではデザイン書を順番に並べるという訳ではなくそれぞれの本が何を扱っているのかに触れながら、それが現在の判断にどう残っているのかを書いていきます。

『生態学的視覚論』

ジェームズ・J・ギブソンの『生態学的視覚論』は見ることを目や脳の中だけで考えず身体と環境の関係から捉える本です。デザインの文脈ではアフォーダンスがよく知られていますが、私の中に強く残ったのはテクスチャーと奥行き、包囲光配列の考え方でした。

包囲光配列は環境から反射して観察者を取り囲む光の構造です。目へ届く光はばらばらの刺激ではなく壁や床、物の表面やその配置によってすでに組織されています。私たちはその中にある変化から面の向きや距離、周囲との関係を読み取っています。

例えば同じ大きさの模様が並ぶ面は遠ざかるほど細かく密に見えます。このテクスチャーの変化から面の広がりや傾きを感じることができます。模様がある境界で途切れていれば一方の面がもう一方を隠していることも分かります。すべての面が見えていなくても見えている面の関係や隠れ方から奥行きが現れます。

そこへ身体の動きが加わると視点の移動に合わせて光の配列も連続して変化し、先ほどまで隠れていた面が現れ別の面が隠れます。静止した一枚の像だけでは曖昧だった前後の関係も、自分が動くことで明らかになります。見ることは目の前の像を受け取るだけではなく環境の中を動きながら確かめ続ける活動です。

アフォーダンスも物にあらかじめ貼り付いた意味ではなく環境と身体の間にある関係として扱われます。同じ段差でも身体の大きさや動ける範囲によって上れる場所にも障害にもなります。環境が何を可能にするかは見る人から切り離して決まりません。

視覚を目の前にあるものをそのまま受け取る仕組みとして考えていた自分には、身体を動かすことまで含めて見るという捉え方が新鮮でした。それまで視覚にはある種もっと即物的な印象を持っていましたが読んだ後は意外とロマンチックなものに思えました。見えない部分そのものというより何かがどう隠れ、動くことで何が現れるのか。それらも周囲を知るための情報であり人間の視覚や想像力は思っていたより多くのことをしています。

建築を振り返ってもすべてを見せないことが情報を減らすとは限らず、壁の曲がり方や面の重なりがその先に空間が続いていることを伝えます。隠れている部分が次の行動を生むこともあります。

視覚の受容系

視覚の受容系はカメラの画素のように光をそのまま記録しているわけではありません。網膜では一つの神経節細胞が受け持つ範囲を受容野と呼びその多くは中心と周辺の明暗差に強く反応します。脳へ送られるのは光の絶対量だけではなく周囲との差や境界を含んだ情報です。

制作の中で特に意識するのが変化のない刺激には視覚が順応するという性質です。一定の刺激が続くと視覚系の反応は弱くなります。一点を見ているときも眼は完全には静止せず、細かな動きによって網膜上の像を動かし続けています。実験的に像を網膜上へ固定すると見えていたものが次第に薄れ、ときには消えてしまいます。

この仕組みを知るとデザインへ変化を加えればよいと考えたくなりますが順応は必ずしも避けるものではありません。長く参照する画面では常時表示する補助的な情報を背景へ退かせ、見落としてほしくない状態の変化には明暗差や動きを使う。ただし変化を続ければそれ自体に順応するため、必要な瞬間だけ変えるようにします。視覚の仕組みは答えを決めてくれるものではなく判断するために知っておく前提の一つです。

『ジョセフ・アルバースの視覚世界』

ギブソンが見ることを身体と環境の関係から捉えたのに対し、ジョセフ・アルバースはより限られた条件の中で関係が見え方そのものを変えることを示します。

『ジョセフ・アルバースの視覚世界』で使われているのはほとんどが直線です。描かれているのは平面のはずなのに線を追うとそこに立体が現れます。どの面が手前にあるのか見ているうちに前後が反転し、一つの形として理解したはずのものが別の形へ変わっていきますが線自体が動いているわけではありません。変わっているのは線と線の関係を読み取る側です。

重要なのは単なる錯視の面白さではなく、私たちが目の前にあるものをそのまま受け取らずいくつもの関係を結びながら形や奥行きをつくっていることです。図に描かれていない空間まで見えてしまうこともあれば同じ図から複数の空間が現れることもあります。見ることは対象を受け取るだけではなく対象を組み立て直す行為でもあります。

アルバースは線を単独の要素として扱うのではなく、その関係によって複数の見え方が生まれるように構成しています。そこに現れる奥行きや揺らぎは偶然に残されたものではなく要素同士の関係を慎重に組み立てた結果です。デザインは完成した形だけでなくそれを見る人が何を読み取るのかまで含んでいます。

線と奥行きの知覚から始まった話はここで人の必要や行為へつながります。この関係を具体的な物の使い方に置き換えると、人が迷わず使えるようにするため何を手がかりとして与えるかというドナルド・ノーマンの問題へつながります。

『誰のためのデザイン?』と『エモーショナル・デザイン』

ドナルド・ノーマンの『誰のためのデザイン?』は物をうまく使えない原因を使う人の能力だけに求めず、物の側にある手がかりや対応関係から考える本です。照明スイッチの例では部屋の平面図と同じ位置にスイッチを置けばどの照明につながっているかがすぐに分かるという解決策を示しました。二次元の配置を二次元のまま対応させる非常に明快な解決策です。

ただ実際にはそのようなスイッチを目にする機会はまずありません。この仕組みが普及しない理由はコストや運用だけではなく一般的なスイッチでも慣れれば十分に使えるからでしょう。初見では分かりにくいものでも広く浸透すればいつの間にか多くの人が使うようになり、Webに置き換えるとハンバーガーメニューもそれに近い例です。

自然な対応づけを使うかすでに学習された慣習を使うかは、初見の利用者が多いか、繰り返し使うものか、誤操作がどれほど問題になるかによって変わります。初見の利用者が多く誤操作の影響が大きい場合は、学習を求めず関係が見て分かる形へ寄せます。反対に繰り返し使う操作ですでに慣習が共有されているなら、学習された手がかりを使って画面を簡潔にすることもあります。

ギブソンとノーマンではアフォーダンスの捉え方が異なることも興味深いです。環境と身体の関係にある行為の可能性を扱うことと、人が何をできると知覚するかをデザインすることは近いようで少し違います。後にノーマンは人が行動を選ぶための知覚可能な手がかりをシグニファイアと呼び、アフォーダンスとの違いを整理しています。

一方で『エモーショナル・デザイン』は私の中で『誰のためのデザイン?』と一見相反するものとして残りました。ノーマン自身は使いやすさと感情を矛盾としてではなく、本能的・行動的・内省的な三つのレベルから捉えています。私が二冊を読む中で気になったのは理論上の矛盾というより制作でどの価値を優先するかという緊張感のある問いでした。

正しく使えることは大事ですが、人は正しさだけで物を選ぶわけではありません。分かりやすさや効率を優先する場面もあれば、一見無駄に見える時間や間を残すことで生まれる体験もあります。もちろん分かりにくくすればよいわけではなくその時間が最後に愛着へ変わるとも限りません。

使いやすさと感情の間には簡単な原則にできない部分が残ります。

建築

画面と建築では使う身体も時間の尺度も異なり、画面では建築のように身体全体を移動させるわけではありません。それでもスクロールや画面遷移によって見える範囲は変わるため操作の前後には時間があります。いま何を見せ、次に何があると感じさせ、現在地をどう伝えるかという点では共通する問いがあります。本を読んで得た考え方も建築の中では別々に現れるわけではなく、光や奥行き、身体の動き、分かりやすさと感情が実際の空間では同時に起きています。

グッゲンハイム美術館

グッゲンハイム美術館はフランク・ロイド・ライトが晩年に手がけた代表作で、1943年に設計が始まり16年後の1959年に開館しました。ライトはその半年前に91歳で亡くなっています。中央の吹き抜けを囲む螺旋状のスロープは従来の美術館とは大きく異なり、建築が展示作品よりも目立つのではないかという議論も起こりました。

グッゲンハイム美術館を実際に現地で見たのはかれこれ10年以上前で、当時の私は展示よりも建築を見ることが目的でした。

中へ入ったときはしばらくその場から動けず、壁や床の色に光が反射して空間全体がぼんやりと柔らかく明るかったことを覚えています。そこからはあの特徴的な螺旋に沿って自然に歩き出しました。実際にはかなり長いはずですが長く感じることはなく、仮に同じ距離が一直線に続いていたら途中で苦しくなっていたかもしれません。

興味を引いたのは壁の曲がり方で、先が見えすぎないまま曲がった先へ少しずつ引かれていきます。一方で高さは変わり続けるので自分がどこまで進んだのかは分かります。次に何があるかは隠しながら全体の中での進み具合は見せる。その二つが同時にあるため長い経路を長く感じなかったのだと思います。

鑑賞者を歩かせる建築には議論があると思います。私の身体には自然に感じられましたが同じ動線が誰にとっても同じように働くとは限りません。歩くことで生まれる体験を保ちながら、異なる身体条件でも空間の連続性を経験できる経路をどうつくるかも同じ建築の中で考えなければならない問題です。

そのうえで私自身の体験を振り返るとあのスロープは単なる移動ではなく、余韻や間のような時間として残っています。

使いやすさや効率はデザインを考えるうえで比較的捉えやすい尺度ですが、目的までの距離を短くすることだけが常に良いとは限りません。グッゲンハイム美術館では目的地へ向かって歩く時間そのものが体験として残り、歩いている時間まで含めて建築が完成しているように感じました。

アーキグラム

アーキグラムは1961年にロンドンで始まった自主制作の建築雑誌から生まれたグループです。宇宙開発や情報技術、消費社会を背景に雑誌やドローイングを通して移動や交換、更新を受け入れる建築を構想しました。多くは建物として実現しない提案でしたが後の建築へ大きな影響を与え、2002年にRIBAロイヤル・ゴールド・メダルを受賞しています。

グッゲンハイム美術館が移動する時間までを建築に含めたものだとすれば、アーキグラムは建築が固定された建物である必要そのものを問い直します。『アーキグラム(鹿島出版会)』に「消耗品化と消費者」「プラグイン」「カプセル」「制御と選択」といった章が並び、交換や移動、選択を受け入れる視点が通っています。

プラグイン・シティでは都市の基盤に住居や店舗などのユニットを差し込み古くなった部分を交換します。一方でウォーキング・シティでは都市の機能を収めた巨大なユニットそのものが移動し、必要な場所で接続します。建物の部品を交換することと都市自体が動くことでは縮尺が異なりますが、どちらも固定された完成形を前提にしていません。

その問いを一人の身体まで縮めたものとしてマイケル・ウェブのクシークルとスータルーンを読むこともできます。1966年のクシークルは生活に必要な環境を背負って移動し、空気で膨らむ膜を必要な場所で展開する装置です。部屋の中へ身体が入るのではなく持ち運んだ環境を身体の周囲へ広げるもので、スータルーンではさらにスーツそのものが最小の家になります。外側の膜や他者のスーツへ接続することで一人分の環境が二人分の場所やさらに大きな空間へ変わります。

これらを知ったとき、建築の最小単位を分解していくと最後には身体を守るスキンだけが残るのではないかと考えました。それを建築と呼べるのか、反対に固定された壁や屋根がなくても身体を守り環境を整えるものがあればそれはすでに建築なのか。

建物を小さくすると建築が消えるのではなく身体の周囲にある膜と離れた場所にある設備やネットワークへ分散し、身体とスキン、設備、環境、他者の間に関係を与えるものとして現れます。アーキグラムから受け取ったのは未来的な形だけではなく建築という言葉が指す範囲そのものを考え直す視点でした。

最後に

ここまで触れてきた本や建築は現在の制作にそのまま適用できる答えではありません。自然に流すのか一度止めるのか、見せるのか隠すのか、順応させるのか変化させるのかを考えるときに以前に見た空間や読んだ言葉が戻ってきます。

ここに挙げたのは私の中に強く残ったもののほんの一部です。同じ本や建築に触れても何が残るかは人によって違うでしょう。デザインについて考える材料は必ずしもデザインの中だけにあるわけではありません。直接関係のない知識や経験が思いがけないところで目の前のものとつながることがあります。そうしたつながりが一つのものを別の角度から捉え直すきっかけになるのだと思います。

参考

補足資料